迷える凡夫の覚書

機能不全家族で育ったポンコツの自分語り

中途入社1年目に長期休職した話 ①

掲題の通り中途入社した会社を入社年に休職する羽目になったのでそのあらましを書いておきたいと思う。休職に至るまでの経緯は長く、本記事も長文になるがご容赦願いたい。

身バレが怖いので詳細は一部フィクションを記載するが筆者の実体験の本質との乖離はないのであしからず。

筆者について

  • 二十代後半男
  • F欄私大卒
  • 妻子あり
  • 都内IT企業勤務(WEBエンジニア)
  • ほぼフルリモートワーク(休職する前まで)
  • 幼いころ両親が離婚し、父子家庭に育つ。
    • そのせいなのか知らんがメンタル弱い。
  • 病歴なし

なぜこの話を書くのか

  1. 復職の日が近づきつつあり、体調も回復してきて冷静に頭が働くようになってきたので改めて休職に至る経緯とその原因分析に役立てたい。

  2. 比較的軽傷だったとはいえメンタル疾患かなりしんどかったし、こじらせると人生狂いかねない恐怖を味わった。そのため今健康な人にも参考までに情報共有しておきたい。ホント他人事じゃない。

  3. 個人的にコロナ災が始まってからの2年間は激動の日々だった。明らかに人生の節目となったし、良いことも悪いことも起こった。改めてこの二年間を振り返りたかった。

本編 ~前職~

まず、休職することになった現職に入社するまでの話をしておきたい。 主に前職での話になる。

前職では都内のIT企業で受託開発を行う部署に配属されていた。この時点で1度転職を経験しており、経験社数はこの時点で2社目となる。

前々職には新卒でSES企業に入社した。自分の出身大学のレベルだと、大抵の卒業者はブラック営業職かブラック小売業ないしブラック飲食業勤務することになる。が、筆者は仕事で人と話すとか無理だと思っていたので、どっか適当なIT企業でパソコンに向かってモクモク仕事したいと思ってSES企業に就職することにした。

(新卒時の著者は今よりもさらに情弱だったためIT企業なんて入れば後はプログラミングの実力次第でいかようにでもうまくやれるだろくらいの認識で、入社後客先でひたすらエクセル書く仕事になるとは思っていなかった。)

研修は同期と一緒に楽しくプログラミング学習をして過ごせたものの、常駐先となった超レガシーシステムの仕事がつまらなすぎてろくにスキルアップもできなかった。そんな職場で年齢だけ重ねてきた中年エンジニアが最後あっけなく切られ、その後次の現場が見つからない姿を見てさすがに将来が不安になって転職を決意し、前職にあたる会社に入社した。

前職においてはいくつかの保守案件でTo C向けのサービスの開発を担当した後、複数の案件で新規サービスないしシステムの立ち上げを責任者としてやらせてもらったりと、そこそこ良いポジションで働かせてもらっていた。入社した翌年くらいから会社の知名度も急上昇し、給料も順調に伸びていったし、外資系コンサルから高額な年収で引き抜きのオファーをもらったりもした。仕事はハードワークでいつもひいひい言っていたがなんとか仕事はこなせていた。

コロナ災の始まり

その間に大学時代から付き合っていた彼女と結婚もし、公私ともにそこそこ順調だったと思う。そんなさなかに新型コロナウイルスの感染者を乗せたダイヤモンドプリンセス号が横浜港に停泊中とのニュースが世間を騒がせるようになった。

この時点では同僚の中にも「新型コロナはただの風邪、みんな騒ぎすぎw」なんて言っている人もいるくらいで、筆者自身もあまり事態を重くは受け止めてはいなかった。

が、あれよあれよと感染は広まり、緊急事態宣言が発令された。仕事の方も原則出社禁止となり全面リモートワークとなった。時を同じくして妻の妊娠がわかり、仕事では新規サービス開発の開発責任者に任命された。

慣れないリモートワーク下で、初めて大手企業の顧客を受け持ち新規サービスの開発を進めるのは非常に精神的なプレッシャーを感じた。納期も厳しかった。チームメンバーも経験の浅い人が中心で、ただでさえコミュ障気味で周りに気を利かせられない自分がリモートワークで猶更コミュニケーションや開発の指揮にてこずり、チーム内は度々ギスギスすることがあった。

こんなときは業務時間外に何かやって気分転換でもしたいところだが、趣味だった合唱やジム通いもコロナできなくなり、家で鬱屈と自分の仕事のミスを思い返しては自分を無能と攻めることが多くなった。

このころから右耳に強い耳鳴りが感じられるようになった。最初は右耳に「キーン」と金属音が聞こえる程度だったのだが、耳鳴りは日に日に強くなり「ボー」と低音が響くようになった。数週間後には左耳にも耳鳴りが現れるようになった。

リモートワーク開始から1か月たつ頃には、皆リモートワークにも慣れてきて、他のメンバーとも少し打ち解けてきた。クライアントとも決まった時間の会議以外にも気軽にオンラインで会話して仕様の不明点を確認しあうようになるなど、開発チームの開発作業は円滑に回るようになってきた。

(ただし、筆者に関しては他にも責任者としてプロジェクトを掛け持ちしていたため、業務時間帯は基本的に打ち合わせか他のメンバーのフォローに費やされた。自分の作業は始業前か終業後の時間にこなしていた。)

コロナ災の出産

やがて妻は産休に入り、平日も休日も常に同じ屋根の下で過ごすようになった。ただでさえコロナ発生後初めての緊急事態宣言中で誰もが精神的にしんどかったこの時期、初めての出産を間近に控えた妻は感染リスクを避けるため外出もままならなかった。そうでなくても元より妻は足が悪く、妊婦の身重では日々の生活に何かと制限がかかり、生活において筆者のサポートが必要だった。また、妻は妊娠糖尿病に罹患していることが分かり、食事にも厳しい制限が課された。出産に筆者が立ち会えないことも確定し、当然妻は精神的に不安定になっていきことあるごとに喧嘩をするようになった。

大変なことばかり書いたが、全面リモートワークになったことで妻へのサポートが必要な時期に妻と出産までの日々を一緒に過ごすことができた。これは本当に幸せなことだったと思う。楽しい思い出も多い。食事もほぼ毎食一緒に食べることができたし、なんだかんだおなかの中の子供は日々健康に育っていった。なにより子供が日々育っていることを筆者もそばで感じることができ、妻とその喜びを共有できた。本当にかけがえのない日々だったと思う。

残暑も厳しいころ、担当していた案件は本格的に忙しさを増し、毎月の残業時間が100時間を超えていた(勤怠つけてない労働時間足せばおそらく月150時間くらい残業していた。)。そんな中で、妻が男児を出産した。

コロナ下での出産のため、立ち合い出産は叶わず、妻が産気づいて病院に行ってからは筆者は自宅で待機していた。その後生まれたとの連絡が入ってから病院に駆けつけ5分だけ面会を許された。あっという間すぎた。それでも初めて見る我が子の姿に感動した。あぁ、確かにこの小さな体の中には命が宿っている。筆者は普段人に涙は見せないので、家に帰ってからこっそり泣いた。

1週間後妻が退院し、1か月ほど妻は自身の実家にて両親と共に子育てをすることになった。筆者は毎週金曜日の業務終了後妻の実家に移動し、土日は妻と育児をした後、日曜夜に自宅に戻り月曜を待たずに仕事に戻る日々を送っていた。

平日も連日夜遅くまで作業し、土日は妻の実家で子育てしながら子供が寝ているわずかな時間を縫うように作業をしていた。夜は子供の夜泣きで眠れない(生まれて間もない子供は昼夜問わず2時間おきにお腹をすかせて泣く)。

1度目の発病

そんな著者の事情などお構いなしに仕事のスケジュールは迫ってくる。出産がらみでバタバタし、仕事の進捗が遅れてしまっても、慢性的な社内の人員不足ゆえ、当然案件への人員の補充はできず、かえって進捗の遅れを責められてしまった。このころから本格的に日々の疲労に対して回復が追い付かなくなり始める。土日はあまり眠れなくとも平日夜はまだ睡眠時間は確保できるはずなのだが、寝ようとしても仕事の緊張感が抜けず平日夜もあまり眠れなくなってしまった。

睡眠不足、過労・育児、引きこもり生活で息抜きもできない等々重なり、仕事中に動悸がするようになっていた。耳鳴りもひどい。プログラムを書こうとパソコンに向かっても考えがまとまらず作業が捗らない。開発メンバーの成果物のレビューも溜まっている。進捗の遅れが恒常化し、いよいよ遅れを取り戻すのが難しくなってきていた。

そしてついに体調を崩した。外も寒くなり始めたとある平日の夕方、未だかつてない強い動悸に襲われ、椅子に座っていることすら困難に。同時にひどい過呼吸も起きていて、全く息ができない(と錯覚した)。心臓と呼吸が同時に暴れ、思わずパニックになり自分で救急車を呼ぼうとした。が、万一その前に意識を失ったら助からないと思い、まず妻に「やばいかも」「救急車読んで」とだけラインした。

その後自分でも救急車を呼んだ。